選手と指導者の関係・体罰の問題

この記事では選手と指導者の関係・体罰の問題について私なりにまとめています。ご興味のある方は下記「続きを読む」よりどうぞ。
(記事作成日時:2013-06-16、更新日時:2019-04-04)

野球13

★当記事の目次

ここでは当記事内の章をリスト化しています。クリックする事で直接その場所へ飛ぶ事ができます。また戻りたい場合には各章の一番下にある「当記事の目次まで戻る」をクリックする事で再びこの場所に戻ってくる事ができます。


一つの事例から体罰問題を考える

2012年12月、大阪府の大阪市立桜宮高校で、高校2年生の男子生徒がバスケットボール部の顧問から体罰を受け、その翌日(23日)に自宅で命を絶つするという事件が起きました。彼はそれより3ヶ月ほど前の9月頃からチームのキャプテンに任命されたとされ、キャプテンの名に恥じぬよう、一生懸命プレイをしようと努力していたそうです。おそらくそのキャプテン就任以降、常習的に体罰を受けてきたものと思われます。

体罰の事は家族には相談していたようで、報道によると30〜40回殴られたと親にも言っていたそうです。また顧問の体罰に悩んでいる旨を手紙にして渡そうと決めていたそうですが、自殺の数日前にその手紙を周囲(チームメートなど)に見せると、「また怒られる」と言われ、渡せないままになった事があったそうです(その後、その手紙の内容が公開されたようです。私は見ていませんが・・・)。

命を絶つ1週間ほど前からは口数が減っていたそうです。あくまで推測ですが、おそらく手紙を渡す事が、自分の気持ちを伝える唯一の手段だと考えていたので、勇気を持って決断したのに、それが渡せなかった事で気持ちが大きく沈んでしまったのではないかと思います。続く、命を絶つ前日の22日には練習試合がありましたが、その試合中に顧問がミスをした選手を叩き、特にキャプテンの彼だけが集中的に叩かれ、怒られていたそうです。それが決定的な理由になったのだと思われます。

その日の午後9時半頃、自宅へいつもより明るい声で帰宅した彼は「お弁当美味しかった」と母と明るく言葉を交わし、母が「叩かれたんか」と聞くと「いっぱい殴られた」と話したそうです。心配をかけまいと気丈に振る舞っていたと思われます。そしてその翌日の午前6時半頃、自室で、制服のネクタイで首を吊った状態で発見されたそうです。遺書も発見され、その中には体罰に悩んできた事、顧問が自分だけに厳しくしてきた事、キャプテンとしての責任感、そして自ら命を絶つ事に対するお侘びと「育ててくれてありがとう」などという感謝も書かれていたそうです。

その他、報道による情報を私なりにまとめてみます。
・顧問に関する情報
過去に16歳以下の日本代表チームのアシスタントコーチを担当。平成6年から同校の体育教員として勤務し、バスケットボール部を全国大会の常連に育てたとされています。この顧問の指導を受けるために学区内に転居する生徒もいるようで、おそらく指導者としてはそれなりに名も知れていたと思われます。

ただし厳しい指導を行う事でも有名で、当時の他の生徒、卒業生OB、副顧問などによると、
生徒「バスケ部員が顧問に怒鳴られている事は日常で、非常に厳しい部だった」
卒業生OB「先生の行なってきた事は間違っていない」
副顧問「顧問は恩師であり、口出しする事はできなかった」
という証言があるため、おそらく体罰は日常的に行われていたと思われます。尚、いつ頃から体罰を含む指導が行われていたかは不明ですが、そのように卒業生の証言があるため、少なくともこの数年前には確実にあったと思われます。学校側は把握していない訳がありません。特に2011年9月にも行き過ぎた指導による通報があったそうですが、当時は「体罰なし」と結論付けられていたようです。またその当時の校長はその後に転任したそうですが、通報に関する情報は現校長には引き継がれなかったそうです。学校側にも責任があります。

・生徒に関する情報
勉強熱心で成績は上位、真面目で責任感が強く、一方で口下手とされています。またバスケットボールは中学時代に大阪府の選抜メンバーに入るほどのレベルで、個人としての能力もそれなりのものを持っていたそうです。

・通夜の日、母親が「(息子の)顔を見てやってください。体罰の痕が分かるでしょう?これは指導ですか、体罰ですか?」と問うと、顧問は「体罰です。すいません。」と謝り、母親はそれを聞き、涙を流していたそうです。

・命を絶った後、1週間以上も顧問や校長などによる両親への謝罪はなかったそうです。
生徒の父親「学校の対応は後手後手の印象があり、不信感を持った」
学校はおろか、教育委員会の対応もずさんだという事が言えると思います。
この事件に限らず、ニュースになるようなイジメや体罰の問題はありますが、何でいつもこういう対応になるんでしょうか。

以上が事件の概要です。このように書いているだけでも私は涙が出そうになります。皆さんはこの事件を知って何を考えますか? 「幸い」と言って良いのかは分かりませんが、この事件以降、報道や国民の間での議論が加速した事によって、これだけ大きな問題として扱われた事には非常に大きな意味があると思います。「彼の死」をきっかけにして、今まで耐えてきた人が、勇気を持って体罰を告発できるような雰囲気ができ、特に柔道の問題ではオリンピックに出場するようなレベルの選手達が告発するなど、実際に様々な体罰の問題が明るみに出るようになっています。日本のスポーツ界が変わるべき時に来ているのではないかと思います。

ただし「どこからどこまでが体罰か」という範囲は、未だ曖昧なままになっています。特に、明確に体罰と判断するためには、例えばスマホの動画や多くの人の目撃証言などの証拠が必要であり、それが行き届かないような閉鎖空間では、例え体罰が起こっても有耶無耶にされてしまうという問題も残っています。一方、指導者が生徒に手を出してはいけないという事を逆に利用し、意図的に指導者を怒らせ、その様子をスマホで撮影、罠にはめるというような事例も出てきています。指導に関わる人間はどのように子どもたちを教育し、またどのように向き合っていくべきなのか、これは非常に難しい問題です。


指導者が体罰を行う原因を考える

ここでは前述の事件とは別として、「何故指導者は体罰をしてしまうのか」という事について考えてみます。尚、人それぞれ考え方は違うと思うので、これはあくまで「個人的な意見」としておきます。

●考えられる原因
1.閉ざされた空間で指導者の好きなように指導ができる
2.その指導者に意見できる人がその場にいない、意見をさせない
3.その指導者も選手時代に当時の指導者から体罰を受けていた
4.その指導者も親から体罰を受けていた
5.その指導者がイジメの加害者側だった事がある
6.短気で熱くなりやすく、逆に冷めやすい
7.体罰など人を傷つける事が好き、あるいは快感に感じている
8.選手をストレス発散の捌け口にしている
9.体罰をする指導法が正しい、または当たり前だと思っている
10.成果、結果主義である
11.選手と指導者を差別化するため、自分の権力を誇示するため
12.選手と指導者の信頼関係が崩れる何らかの原因が体罰以前にあった
など、このような場合が考えられると思います。
私なりに順番に考えてみます。

1と2について。
人間は一旦権力を持てるような環境に置かれると、その権力を誇示しようとし、またそれを維持しようとします。特に今まで権力を得た事がない人にとっては、一度でも大きな権力を得ると、その権力を失う事がとても怖くなってしまうのです。そのため誰にも自分の環境や権力を奪われないようにするため、だんだん部外者を立ち入らせないような閉鎖的な環境を作っていきます。それにより選手はもちろん、自分以外の誰にも意見をさせないようにしていきます。そのような絶対的な環境を作れば、全て自分のやりたいように指導できるからです。しかもそのような環境で結果を出す度に、結果が出ているんだから自分が一番正しいという偏った考え方がどんどん強くなっていきます。

そのような閉鎖空間では外から意見が入って来ないので、自分の指導法が他と比べてどうなのかとか、自分の指導法が間違っているかどうかとか、自分の行っている事が良いのか悪いのかなどの判断ができなくなり、どんどん考え方が偏っていきます。最初は躊躇していた「選手に手をあげる」という行為も、次第に手を挙げる行為自体を自分の中で正当化していきます。最終的にはどのような場合に体罰が必要か、という判断すらしなくなり、自分が体罰を行なっているかどうかの判断ができなくなっていきます。

何年も自らが築き上げてきたものがありますから、もし仮に間違いを指摘されたとしても、自分を正当化する事を優先します。また周囲にいる人間にもそれを強く求め、より強固な閉鎖空間を作ろうとします。こういう指導者は未だに多いですが、途中で気付く人は稀であり、何かが起きてから気付かされるという人が多いです。また気づいても高いプライドと恐怖から、途中で方向転換ができず、そのまま現在の指導を続けてしまう場合もあります。

3と4について。
これは自分が体罰を受けてきたから、自分も体罰を行なって構わないという考え方です。それで一度結果が出てしまえば、ますます体罰を肯定していきます。結果が出た=体罰の影響=自分には指導力があると勘違いしてしまうのです。

よく「私はそのような時代で育ってきた」「私の頃はそれが当たり前だった」と肯定する人もいますが、時代というのはそもそも変わるものであり、今と昔を比べる意味がありません。自分の時代で体罰が許されていたからって、今の時代でもそれが通用するなんて考えてる時点で、時代の流れに対応できていないのです。そういう人に限って知ったか振りして「今の若い者はなってない」などと蔑んだりするんですよね。単に自分の考え方を否定されるのが嫌なだけだと思います。年齢を重ねただけのガキですね。

5〜8について。
これはその人が元々暴力的な中身だという場合です。これに関しては人格的な問題なので、大人になった今更、簡単に直るようなものではありません。しかしこれは指導者自身もそうですが、止めない周りの人間にも問題があります。指導者としてその人が適切であるかないかを、その人の実績や資格のみで判断しているからこそ、体罰が起きてしまうという考え方もできるはずです。結果は大事ですが、それだけでは子どもたちのためになりません。

9について。
体罰を前提とした指導ではどのような時に体罰が必要で、どのような時には不要という判断を行っているとされています。体罰を行っている指導者の中にはそういう事を言う人もいます。しかし実際には、前述したようにその判断能力は衰える一方であり、結果として体罰に頼った指導になってしまいます。何故衰えるのかというと、閉鎖空間を作って外部からの意見を取り入れず、その環境を維持しようとするため、大きな環境の変化が起こらないからです。環境が変化すればそれに適応するため人間は能力を発揮しようとします。それは指導者も同じです。しかしそれがないので、維持どころか実際には後退してしまう訳です。

尚、体罰は手を出せばそれで指導が終わってしまいます。選手に分かるように説明するため、指導者が頭をフル回転させて言葉を選んでそれを伝える・・・というよりも手を出す方が単純に楽なので、それによっても指導者としての能力は後退します。しかもそのように外部からの意見がないため、その事に本人は気づきません。

10について。
今まで大きな実績がなく、大きな実績が欲しい指導者はどうしても結果や成績だけを重視しがちです。その場合、目標設定が適切ではない事が多く、選手の実力が伴わないのに指導者だけが無駄に熱くなってしまいます。選手が自分の思い通りに動かない事でストレスを感じ、手を上げてしまうのです。実際にプレーをしているのは指導者ではなく「選手」です。選手が自分のプレーができるよう、環境を整える事が重要です。それを怠って勝手に熱くなり暴力を振るうというのはもう論外だと思います。

11について。
「選手と指導者は友達じゃない」というように、自分の立場を明確化しようとして手を上げる人もいます。そもそも貴方の人格や指導力が選手に合っていれば、選手は自然と貴方の事を信頼してくれるのではないでしょうか。それがない時点で、既に指導者の選手との関係は破綻してしまっています。そんな状態で何かを教えようとしても選手には何も伝わりません。指導するためには「信頼」という土台が必要なのです。

12について。
選手が努力している姿を評価しなかったとか、ミスをした理由を聞かずに一方的に怒るとか、八つ当たりするとか、練習に遅刻するとか、マナーが悪いとか、肝心な事を教えてくれないとか、そういう細かいものが重なる事でも信頼は薄れていきます。指導者が思う以上に、選手は指導者の事を見ています。普段の行いを改めるべきでしょう。


体罰ありきの指導ではいずれ効果は頭打ちになる

体罰は不要なものです。ここではその理由をまとめます。

1.体罰が必要と判断する能力
2.体罰に頼った指導
3.力の行使
4.体罰で選手の能力が上がるのか
5.親による教育
6.スポーツによる教育

1について。 まず第一に体罰を行う指導者や体罰を肯定する指導者には「体罰が必要だと判断する能力があるのか?」という事です。その能力がないのに、あるいは自分にはあると勘違いし、最初から体罰を肯定している人に限って、感情に任せて手を出したりするのです。もうそのような時代ではありません。

よく「痛みを与える事で初めて分かる事もある」と言う人もいますが、例えば怪我、筋肉痛、喧嘩、転倒、エラー、敗北、スランプ、思うように行かないストレスなど、スポーツをやっていれば誰しもが必ず痛みを経験します。しかしそれを経験する度に選手は自らで学んでいく事ができます。指導者が指導すべきなのは「選手が自ら学んでいく姿勢や考え方」であり、それこそが選手を導く「指導」なのではないでしょうか。それを疎かにした状態で行う体罰から選手は何を学べば良いのでしょうか。選手の自主性を重んじない体罰は「指導」ではなく、単なる「服従」です。

また「叩いて分からせる」の「分からせる」の部分も、自分の立場を危ぶませないよう恐怖で従わせているだけだと思います。恐怖で従わされているだけの選手は、咄嗟に何か想定外の事が起こった時、自分だけの考えでは行動できない指示待ち人間になってしまいます。指導者の恐怖に怯え、指導者のご機嫌を取るためだけに一生懸命やっているようでは、同じミスを何度も繰り返してしまうでしょう。実際にプレイをしているのは指導者ではなく選手であり、選手が主役です。どんな選手であっても、自分のプレイができるような環境を整えてあげる事が、指導者としての手腕なのではないでしょうか。その手腕が「体罰」である必要はないはずです。

尚、チームとして強くなるという事を考え方時に「苦痛を伴うもの」という考え方を持っている人は多いです。しかし努力の方向性が間違っていれば、努力の過程で経験した苦痛はその多くが無駄になってしまいます。そのような指導はとても効率が良いとは言えません。練習時間はもちろん選手の体力には限りがあり、許された時間を有効的に使うためには、苦痛を伴う事が前提の指導はすべきではないでしょう。

2について。
指導者に「体罰以外の基本的な指導力がそもそもあるのか?」という事です。選手を見る眼、選手采配、戦術、人柄、マナー、教え方、体や栄養に関する知識など、そもそも体罰を行う理由が指導者の何らかの「不足」によるものだとしたら、その不足を体罰で隠して見えないようにし、選手からの信頼を損なわないよう、単に体罰に頼っているだけだと思います。自分が指導しやすい環境を作り、それを維持していく事では、外から学ぶ事ができず、考え方や知識は知らず知らずの内に偏っていきます。向上心を持つべきなのは選手だけではありません。

3について。
これは既に書きましたが、指導者の選手を見る眼、選手采配、戦術、人柄、マナー、教え方などに問題がなければ、選手は自然と指導者の事を信頼してくれるはずです。指導者として信頼されていないという事は、野球や指導以外の部分にも問題がある可能性があります。それを自覚し、今一度自分を見つめ直しましょう。指導者は選手に否定されてこそ成長するものです。例え友だち感覚でも別に良いと思います。単に厳しいだけで勝っても見ている方は全然楽しくないですよ。見ている方も楽しませてこそのスポーツだと思います。

4について。
選手の能力の中で仮に「体罰で伸びる部分」があるとすれば、逆に「体罰以外で伸びる部分」もあるという事です。その部分を伸ばさずに体罰で伸びる部分だけを伸ばすような指導で、果たして選手の持っている能力が引き出されていると言えるのでしょうか。また体罰は選手の外側から行われるものであり、外部からの刺激によってやる気が生まれても、それは長続きしませんし、内側から自然に生まれた「やる気」の安定性にはとても勝てません。というよりそもそも外側からの刺激は何も体罰である必要がありません。

選手が能力を発揮するか否か、その能力を伸ばすか否かは結局選手本人のやる気次第です。やる気を出す方法なんていくらでもあるため、やる気を出すのに体罰の有無は関係がありません。逆に体罰をする事によって選手のやる気が削がれ、能力が下がったらどうするんでしょうか。もしその人が何年かに一度の逸材とかだったらどうでしょうか。体罰をしない指導でその選手の能力を伸ばす事ができるとしたら、わざわざ体罰を行う事で、指導者自らがその優秀な選手を切り捨てているという事です。それはチームを強くしたいという事と矛盾してしまいます。

尚、「体罰だけで伸びる部分」など存在しません。それは体罰による効果ではなく、元々持っている「成長したい」という本人の意思によるものです。その意思を引き出すためには体罰は必ずしも必要ありません。体罰をしない指導でいくらでも引き出せますからね。口で言って通じないのは説明の仕方が悪いからです。それは指導者の責任であって選手の責任ではありません。「口で言って分からないから」は体罰を行う理由にはなりません。

5について。
まぁこれは教師か外部コーチか、あるいは寮生活か実家暮らしかなどによっても大きく違いますが、選手と最も長い時間を過ごしているのは親のはずです。その親でも行っていないような厳しい指導(体罰)を、たった数時間程度の関わりしかないスポーツ指導者が行うというのは大きな間違いだと思います。

選手にとっての本当の指導者は「親」であるべきです。体罰をする事で親よりもスポーツ指導者の方が立場が上になっては、親がスポーツ指導者に逆らえない、意見できないという閉鎖的な環境となり、ますますスポーツ指導者が力を行使したがるようになると思います。実績のあるスポーツ指導者と言えど、教える事のできる事には限りがあります。全てにスポーツ指導者が口を出す必要はありません。親が教育すべき所は親に任せるべきです。ただしこれは親に体罰をしてもらうという事ではありません。親もスポーツ指導者に任せっきりにしないという事です。

6について。
よく「スポーツは教育である」と言う人がいますが、スポーツは自分から学んでいく「自主学習」のようなものであり、本来は誰かから何かを教えられるようなものではありません。偉そうに「教育してやる」なんて誰も望んでないです。その押しつけが体育嫌いに繋がったりしている訳です。

コーチングとティーチングは全く別の物です。勉強は指導者(教師)からの一方通行で、知識の詰め込みでもそれなりに上達しますが、スポーツは指導者からの一方通行だけではすぐに限界が来てしまいます。ましてや体罰など一方通行以外の何物でもありません。指導者は「子どもたちが自らで学ぶための環境」を作る事が仕事です。

体罰なんかなくても、選手の能力を引き出す方法はいくらでもあると思っています。選手は全て違う人間であり、それぞれに合った教え方が必ずあります。その意味でも体罰が前提の指導では選手の能力を引き出す事ができないと思います。



体罰をなくすためには

日本人には自分を下げて戒めていく「自虐的な考え方」と、集団で行動する事を美徳とする「集団主義の考え方」が強く、それが潜在的な所に染み付いているのではないかと思います。それによって傍から見れば「体罰」と思えるものを、選手・指導者・保護者個人、チーム・学校などの集団では許してしまう事があります。また学校で起きた事でも、自分自身に実際に起きた事でなければ、どこか他人行儀になり、真剣に議論しないという事も多いです。

特に学校には問題を学校だけで処理をしようとする、傍から見れば隠蔽だと思われても仕方がない体質があります。そういう環境を改善していくのももちろん重要な事なのですが、学校に預ける周囲の人間も「そういう環境があり得る」という事を想定していかない限り、体罰を行う指導者を減らす事はできても、体罰が起こり得る環境を減らす事は中々できません。

スポーツ=教育の一つとして考えている人の多くには、前述したように「成長には苦痛を伴うもの」「苦痛は仕方ないもの」という考え方もあります。それも体罰が減らない一つの理由だと私は思います。努力の過程で苦痛が生まれても、その努力の方向性が間違っていたら、それは無駄な苦痛になってしまいます。何でもスマホでできてしまう便利な時代で、世の中では無駄を省く事を重視しますが、何故教育では未だに非効率的な事を続けるのでしょうか。

職人の世界でも「何年も見ているだけで道具を使わせない」「背中を見て覚えさせる」という事を未だにしています。最初から手取り足取り教育する事で効率の良い成長ができるのなら、わざわざそんな事をする意味がありません(そのような教え方では「考える力や感性が身につかない」と言われますが、だったら考えさせるような教え方をすれば良いだけです)。時間は誰しも有限なのです。浮いた時間でたくさんの後継者を育てる事だってできるはずです。結果としてその指導法が後継者を減らす理由にもなっており、本当に日本人は無駄な事が好きなんだなと残念に思います。判子とか手書きの履歴書とか特にそう。無駄ばっかり。

某野球選手の「遠回りする事が近道」という言葉があります。それは努力の方向性が正しいからこそ、そう言えるのです。努力の方向性が正しくても、人間ですから時には失敗をします。しかしその失敗は方向的には間違っていないのです。だからこそ、その失敗から学び、学ぶ度に成長する事ができます。スポーツの指導もそうあるべきです。




×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。